妄想の餌

カテゴリ: 剣の皇子

先週末は、京都の宮津市で開催された講演会に出席し、翌日は丹後から若狭にかけてを、地元の友人に案内してもらいました。

 

その時に強く感じたのは、ヒメヒコ制度の名残。

ヒメヒコ制度とは、皇族の姫が巫女として神託を受け、それをもとに王が政治を行う政治制度です。
神に近い存在とされる皇族の女子が崇められ、彼女と組んだ男性が王となり実務を行う。

私はこれを、日本古来の政治形態ではないかと考えています。

 

若狭の若狭彦神社は、彦と姫が上社と下社に分かれて鎮座していますし、元若狭と言われる若狭彦姫神社には、社名の通り、彦と姫が祀られています。


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▶︎若狭彦神社 上社 若狭彦神社

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▶︎若狭彦神社 下社 若狭姫神社

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▶︎若狭彦姫神社

この他、日笠古墳群にある上船塚、下船塚古墳は、仲良く並ぶように配置され、同じく若狭町にある丸山塚古墳からは、双龍の環頭が出土しています。

同様の環頭は丹後湯舟坂二号墳からも出土しています。

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▶︎上船塚古墳と下船塚古墳(
日笠古墳群)


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▶︎金銅製双竜式環頭(丸山塚古墳出土)

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▶︎
金銅装双龍環頭大刀(丹後湯舟坂二号墳出土)

これらがヒメとヒコを表しているかは定かではありませんが、兄妹、2つの権力の連合、夫婦など、この地域の人たちが、何らかのペアを意識していたような気がしています。


若狭のようなペアの古墳は、ヤマトでも見られます。

例えば、佐紀古墳群の陵山古墳と石塚山古墳がそうです。

陵山古墳は、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛(ひばすひめ)の陵とされ、彼女は丹後を拠点としたと考えられる丹波道主(たんばのみちぬし)の娘です。
陵山古墳と相似形とされる網野銚子山古墳も、京丹後市にありますね。

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▶︎
陵山古墳と石塚山古墳(佐紀古墳群)

そしてもう一つ、同じく佐紀古墳群にあるコナベ古墳とウワナベ古墳も、仁徳天皇の本妻と妾妃の墓とされているにも関わらず、仲良く並んでいます。

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▶︎
コナベ古墳とウワナベ古墳(佐紀古墳群)

 

同じ佐紀古墳群と言いましたが、記紀を読むと、この一帯は佐紀と佐保に分かれていて、ウワナベ、コナベ古墳がある地域は、佐保側に属すると思われます。

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▶︎平城京の北西が佐紀、北東が佐保と呼ばれていたようです。

佐保は彦坐王(ひこいますのおう)の子、狭穂彦が治めた地域で、現在、狭岡神社が鎮座する場所に城があったとされています。

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▶︎狭岡神社

彦坐王とは、開化天皇の皇子で、彼の伝承は丹後に多く残されており、丹後を拠点にしていたと考えられます。

先出の丹波道主も彦坐王の子とされていますので、狭穂彦とは腹違いの兄弟になります。

この狭穂彦には、狭穂姫という妹がおり、彼女は垂仁天皇の最初の皇后になっています。
(詳しくは春の女神と悲劇の姫をお読みください)

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▶︎狭岡神社境内 狭穂姫伝承の鏡池

そんな狭穂彦は、反乱を起こし、狭穂姫も兄と共に自決したと伝わります。

禁断の兄妹愛のように語られていますが、これも私は巫女である狭穂姫を巡る、権力闘争ではないかと考えています。

つまり、ヒメを巡るヒコたちの戦い。

この戦いに勝利した垂仁天皇は、同じく丹後を拠点とする丹波道主の娘、日葉酢媛を皇后にします。

もしかしたら、日葉酢媛も巫女だったのかもしれませんね。



今回、発掘調査が決まったウワナベ古墳は、宮内庁により八田皇女(やたのひめみこ)の墓とされています。

八田皇女は、仁徳天皇の腹違いの弟、菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)の同母妹です。

父、応神天皇により皇太子とされていた菟道稚郎子ですが、兄に皇位を譲って自ら命を断ったと伝えられています。

弟の死を知り、仁徳天皇が駆けつけると、菟道稚郎子は一時的に生き返り「八田を頼む」と言い残して、再び息絶えます。

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▶︎宇治墓(
菟道稚郎子陵)

この後、仁徳天皇は、本妻である磐之媛(いわのひめ)がどれほど嫉妬に狂おうと、八田皇女に執着します。

これも、単なる恋愛感情からだけとは思えませんね。

葛城氏出身の磐之媛に対し、皇族である八田皇女は、巫女であった可能性があります。

応神天皇が菟道稚郎子を皇太子にしたのも、もしかしたら、そちらの血筋に正統性があったからかもしれません。

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▶︎
菟道稚郎子を祀る宇治神社(京都 宇治)

ちなみに、菟道稚郎子は、彦坐王同様、和邇(わに)氏の母を持つ点も、気になるところです。
また彼は、和邇博士から教育を受け、学問の神として宇治の地に祀られています。(和邇氏と和邇博士の関係は、まだよくわかりません)

八田皇女を妃としたのち、仁徳天皇は八田皇女の妹、雌鳥皇女(めとりのひめみこ)にも求婚しています。
しかし、晩酌人として赴かせた異母弟、
隼別皇子(はやぶさわけのみこ)と恋に落ちた雌鳥皇女は、逃避行の末に二人とも殺されてしまいます。
ここでも、仁徳天皇が和邇氏の姫を妻にしたいとこだわった様子が伺えますね。

宮津市の須津彦神社・須津姫神社の由来書きによると、宇治から逃れた雌鳥皇女と隼別皇子が最初に身を隠したのは、丹後の倉椅山(くらはしやま)とあります。(奈良桜井の倉椅山との説もある)

なぜ、二人が身を寄せたのは丹後だったのか……想像は尽きません。

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▶︎須津彦神社・須津姫神社
 

どんな理由でウワナベ古墳が八田皇女の墓に比定されたのかはわかりませんが、佐保の地に造られたペアの古墳。

一体、どんな秘密が隠されているのでしょう。

静かにそっと眠らせてあげたいと思う反面、秘された歴史に陽が当たるきっかけになればと、今は複雑な心境でいます。



〜個人的メモ〜

須津彦神社・須津姫神社の
祭神、去来穂別天皇は履中天皇のこと。
久呂比売命はその妻。(つまり、須津彦と須津姫は履中天皇夫妻?)
須津彦神社は、かつては大谷の東宮ヶ谷に鎮座していた。大谷=王谷?
当社には、億計命・弘計命(ヲケノスメラミコト・オケノスメラミコト)が隠棲したとも伝わる。
億計命・弘計命の父は市辺押磐命(イチベノオシハノミコ)。
市辺押磐命(イチベノオシハノミコ)の父は履中天皇。

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以前から、大阪府の千早赤阪村で気になっていた地名があります。
それが「森屋」。
物部守屋からでは?と思い、現地の人に尋ねてみても、「この辺は、どちらかというと蘇我氏ですからねぇ」とのこと。
でも、やっぱり気になるので、地図を見て周辺にヒントが無いか調べてみました。
 
すると、現在行政区分では河南町になりますが、森屋地区のそばに鴨習太神社(かもならいたじんじゃ)を見つけました。

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こちらの主祭神は饒速日命・天照地照彦火明命・櫛玉命で、いずれも饒速日(ニギハヤヒ)の事と考えられます。
饒速日といえば、物部氏の祖神で、この一帯が物部氏の勢力圏であったことから祀られたとありました。
確証には至れていませんが、少なからず森屋が守屋の可能性はありそうです。
 
しかし、気になるのはこちらの社名。
鴨という文字が入っていますので、カモ氏が連想されます。
鴨習太神社は、延喜式に記載されていますが、その後所在不明となり、現在の神社は、明治時代までは天満宮と呼ばれ、菅原道真を祀っていたそうです。
その後、付近にあった神社の合祀などを経て、式代・鴨習太神社に比定され、社名と主祭神も現在のものに改められたとのこと。
 
現地の方が、
「この辺は、どちらかというと蘇我氏ですからねぇ」とおっしゃったのは、蘇我氏が石川流域、現在の河南町あたりを本拠地の一つとしていたとされるからでしょう。
この石川は、
餌香会賀・恵我・恵賀・衛我とも)川と呼ばれていたそうで、川下では古市古墳群がある羽曳野市や藤井寺市を通り、大和川と合流します。
かつて
餌香川の左岸には、餌香(えがのいち)という市があり、現在の松原市東部から羽曳野市の北端にかけての地域は餌香と呼ばれていたそうです。
餌香市は、現在の藤井寺市国府あたりにあったという説が有力で、石川の舟運をはじめ、東西に長尾街道、南北に東高野街道が通る要所であったとされています。

この地域が、かつてエガと呼ばれていたことを、今に残す史跡があります。

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▶︎
誉田御廟山古墳(石柱に惠我藻伏崗陵と彫られています)

古市古墳群にある
誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)です。
こちらの古墳は、宮内庁より惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)とし、応神天皇の陵に治定されています。
惠我藻伏崗とは、「エガにある、藻を伏せたような丘」を意味するそうです。
この他、この地域には、仲哀天皇陵、允恭天皇陵など、天皇陵が集中して築造されています。
エガ一帯は渡来人の集来地であったとされ、渡来人と関係が深かったと思われる蘇我氏が、その川上である河南町周辺を拠点としたというのは、自然な流れのような気がします。
そしてこの地域に天皇陵が集中して造られていることから、いわゆる河内政権は、渡来人を味方に付けることで発展した政権であると、裏付けているような気もします。

また、河南町から大和葛城山を越えた奈良側には葛城市や御所市があり、そこは蘇我氏と同じく武内宿禰を祖とする葛城氏の拠点です。
御所市には、全国のカモ
(鴨・賀茂・加茂)神社の総社を称する高鴨神社も鎮座しており、葛城国造は天神系高魂命裔の賀茂氏と同祖とあります。

蘇我氏→葛城氏→鴨氏

そう考えると、所在が不明になる前の鴨習太神社は、鴨氏が建てた神社だったのかもしれませんね。
エガには、雄略13年に物部氏に与えられた地域も含むとされますから、
鴨習太神社に饒速日を祀った物部氏の勢力というのも、この時エガを与えられた人々が、石川を上って来たものなのでしょうか。
いずれも、結論付けるにはまだまだ資料が足りませんので、今後も調べを進めていきたいと思います。


最後に。
千早赤坂村に鎮座する建水分神社は、後醍醐天皇の勅命により、楠木正成が元の鎮座地から現在の地に遷座したとされていますが、その境内からは古市古墳群が見えます。

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▶︎ポコポコと丘のように見えるのが古市古墳群の古墳
 
正成の城、下赤坂城跡からは、石川が流れる古市古墳群も含め、河内平野を広く見渡すことができます。

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正成は意図的にこれらの場所を選んだのだろうと、これらの地に立って改めて思いました。



〜個人的メモ〜
建水分神社と葛城水分神社が結ぶ道
菊水紋と橘諸兄
井出と山吹
菅原道真→土師氏→土師の里→古市古墳群
長岡京 恵解山古墳

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私が数年前から気になっている言葉があります。
それは「ユラ」。
最初に意識し始めたのは、京都府福知山市を流れる由良(ユラ)川と出会った時。
福知山市三和町に鎮座する大原神社を参拝した折に、土師(ハジ)川と由良川に掛かる橋を渡りました。
大原神社は、九鬼一族が建てた神社で、祭神は伊邪那美(イザナミ)命、天照大神、月弓命(月読)です。
九鬼は水軍としても有名ですから、海人族が信仰した神、月読命を祀ったのでしょう。

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▶︎大原神社

土師川の土師といえば、土器を作る古代の工人集団で、古墳の築造を先導することで古墳時代に活躍した人々です。
海人族、土師氏という、私的に古代を語る上で見逃せない人々の痕跡がみられる地域。
では「由良」にも何か意味があるのでは? と、心に引っかかったのがきっかけでした。
しかし、この時には有益な情報は得られませんでした。


次に「ユラ」と出会ったのは、大阪府高石市の等乃伎(トノキ)神社でした。

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そちらのご由緒には、古事記の一節が書かれており、その中に「由良の門(ト)」とあったのです。

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この場合の由良の門とは、淡路島と和歌山の間の海峡のことで、現在もそれぞれの対岸には「由良」という地名が残されています。

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▶︎和歌山県由良町(白崎海岸)

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▶︎淡路島由良町(じゃらんより)

このほか調べてみると、全国に「ユラ」という地名や河川名が多く残されていることがわかってきました。


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由良の門は、有名な万葉集の歌にも詠まれています。

由良の門を渡る舟人かぢをたえ ゆくへも知らぬ恋の道かな
曽禰好忠(46番)『新古今集』恋・1071

この歌にある
由良の門とは、淡路と紀伊の間ではなく、京都府宮津市の由良川の河口のこととも言われています。(「門」とは、海峡や瀬戸、もしくは川と海が出会う河口部など、潮の流れが激しい場所のことを言ったようです)
宮津市の由良川は、私が最初に福知山で出会った由良川の下流になります。
また、この歌に詠まれる由良の門は、愛媛県の由良半島と九州との海峡であるとの説もあります。
このあたりは、九州から海人族が渡ってきたルートの一つではないかと、以前にも検証した地域です。(別々に祀られた神々とナガオの関係

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いずれにせよ、ユラという地名が、海や川などの要所(もしくは難所)に多く見られ、古代海人族がそこを重要視していたことが推測されます。

ここで一旦話が変わりますが、私がもう一つ気になっている日出神社についてお話します。
先日、家族旅行で宿泊したのが、和歌山県白浜町の日置(ヒキ)という地区でした。
そこに偶然、以前から気になっていた神社が鎮座していました。

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こちらが日出神社。
祭神は月読命で、かつては出月宮と呼ばれていたそうです。

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日出神社は日置川の河口近くに鎮座していて、ここからすぐに海に出ることができるため、神社の目の前を流れる川には、多くの船が停泊していました。
またこの地域は、船の操行や造船技術に優れた熊野水軍発祥の地とも言われ、神輿を船に見立てた祭りが行われているそうです。

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月から時や潮の流れを読んだと言われる海人族。
だからこそ、彼らは月読を信仰したと言われていますが、その技術が天文学や気象学に基づくものであったとすれば、太陽も月と同様、彼らにとっては大切な指針であり、トーテムとなり得るでしょう。
そう考えれば、日出神社を海人族が祀った神社と考えても不自然ではありませんね。
そんな日出神社もユラと同じく、各地で見られます。

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その位置を注意深く見ていくと、こちらも海や川の要所と思われる地域に多く鎮座しているように思われます。
しかし、その祭神は月読に限りません。
これは、どういう事なのでしょうか。
 
今回はこの問題について、「祭神は後世に変化することも多いから」と簡単に済まさずに、さらに深く探っていきたいと思います。
まず、私が注目したのは、兵庫県豊岡市の日出神社です。

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豊岡には、日出神社が二社あり、それぞれ畑山と南尾という地域に鎮座しています。
畑山の祭神は、多遅摩比多訶(たぢまひたか)神。
南尾の祭神は、多遲麻日多訶神と由良止美(ゆらどみ)神です。
多遅摩比多訶は、神功皇后の祖父にあたり、由良止美は比多訶の姪であり妻です。
彼らは天日槍(アメノヒボコ)の子孫であり、比多訶の兄田道間守(たじまもり)は、三宅連の祖とされています。天日槍田道間守

神功皇后といえば月読を信仰していた節があると、以前お話ししたのを覚えていらっしゃるでしょうか。浦島伝説と月の神
神託により何度も苦難を乗り越えた神功皇后は、巫女であった可能性が高いと思われます。
そんな皇后の母方の祖母が由良止美。
その名に「ユラ」と付くのは偶然でしょうか?

そして、神功皇后と由良止美の共通の祖先である天日槍は、豊岡の出石を拠点にしたと伝えられ、出石神社に祀られています。
新羅の王子と伝えられる天日槍は、出石の先住者、太耳の娘の麻多烏(またお)を娶り、子を儲けたとされています。
 
太耳はその名から海人族と思われ、渡来人、もしくは帰国人であるヒボコと血縁関係を結ぶことで、彼らの技術を取り込んだと考えられます。
太耳が政(まつりごと)を行う首長だったとしたら、その娘麻多烏は巫女だったかもしれません。
比多訶の妻由良度美は、比多訶の姪でもあるので、彼らはいずれもヒボコと麻多烏の血を引いています
麻多烏から由良度美、そして、神功皇后へ。
女系を辿って、霊力が引き継がれていったのかもしれませんね。

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▶︎出石神社

現在、畑山と南尾の日出神社は、いずれも出石川沿いに鎮座しています。
余談かもしれませんが、畑山の日出神社の近く、同じく出石川沿いに鎮座する水影神社の祭神は月読です。
このほか、豊岡市内には月出神社という月読を祭神とする神社もあり、海人族が多く居住していたと考えられます。

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地元の方のお話によると、豊岡の日出神社は、元々は舞鶴と宮津に跨がる由良ケ岳に鎮座していたとか。
これが事実であれば、由良ケ岳の頂上からは、由良川の河口がよく見えますので、海から侵入してくる船を監視したり、船出する仲間の安全を祈る場所が、ここにはあったかもしれません。
海人族たちが、そのような場所に神社を建てたと考えると、各地の日出神社の立地とも重なってくるような気がします。

私の誤読により、由良ケ岳にかつて鎮座していたのは、宮津市の由良神社でした。
この部分に関しては、訂正してお詫びします。
しかしながら、由良ケ岳の頂上から由良川の河口がよく見えることは事実ですし、そこにユラという神社が鎮座していたということには意味があると考えています。

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▶︎由良ケ岳からの由良川の河口をのぞむ

由良、月読、日出神社、神功皇后、由良止美、天日槍、出石、海人族。
まだぼんやりとではありますが、ここまで調べてきた中でも、これらが複雑に関係しているような気がします。
各地の日出神社には、このほかにも興味深い神々が祀られているのですが、長くなりますのでそれらについてはまたの機会に。

今後も、海人族と日本人のルーツを求めて、妄想の旅を続けていきたいと思います。

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私が数年来、意味もなく惹かれている神社があります。
それは、紀伊国一ノ宮「丹生都比売(にうつひめ)神社」です。

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空海が開山する際、場所をどこにするべきかを比売に尋ね、高野山を授けられたと伝えられています。
また丹生都比売は、丹の採取を生業とする丹生一族が信仰した女神と伝えられ、空海はその丹を資金源にしていたのではないかとの説もあります。
丹生都比売神社の由緒によると、丹生都比売は天照の妹神と書かれており、一般的に天照には妹はいないとされているので、以前から不思議だなと思っていました。

特に謎を追求することもなく数年が過ぎていたのですが、先日、導かれるように立ち寄った泉佐野市の「船岡神社」に、丹生都比売神社の創建について書かれているのを見つけました。

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要約すると、神功皇后が三韓平定に行く際、丹生都比売から「朱で染めた武具を身に付けると勝利する」との神託を受け、それに従うと勝利できたので、その礼として丹生都比売神社を創建したとあります。
恥ずかしながら、丹生都比売神社と神功皇后に繋がりがあるとは、この時まで知りませんでした。(後から丹生都比売神社のご由緒を見ると、確かにそう書かれていたのに不思議)
船岡神社は、今はやや内陸にありますが、古代には神社が鎮座する船岡山の麓まで、大阪湾が迫っていたそうです。
神功皇后と応神天皇の一行は、ここから上陸したとあり、それがこの地が船岡と呼ばれる由来のようです。

ここで、神功皇后と忍熊の戦いについて、思い出してみてください。
三韓征伐から帰ってきた神功皇后の一行(以後、西軍)は、忍熊の軍(以後、東軍)が明石海峡に砦(五色塚古墳)を築いていると知って進路を変え、紀淡海峡から北上して、難波への上陸を試みます。(丹後海部氏と、2つの「カブト山」
紀淡海峡から、大阪湾を北上していく途中に泉佐野市は位置します。
西軍はこの時、船岡に停泊したのでしょうか。
地理的に見れば、船岡へ立ち寄る前に、紀ノ川を使って現在のかつらぎ町まで行き、勝利に導いた丹生都比売を祀る神社を建ててきたのかもしれません。

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▶︎西軍進路予想図

「朱で染めた武具を身につけよ」との神託を与えられたということは、取り方を変えれば「朱で染めた武具を身につけた兵」を与えられたということかもしれません。
もしかしたら、神功皇后に従った丹生一族の拠点の一つが、船岡にもあったのかもしれませんね。

そんな丹生族が信仰する丹生都比売を祀る神社は、ある特徴を持った土地に多く存在しています。

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▶︎
http://kamnavi.jp/ny/nyutu.htmより

水銀、つまり丹が採取される場所ですね。
以前から私は、大分と愛媛の間にある豊予海峡を渡って、四国経由で東を目指した人々がいたのではないかと推測していましたが、この図を見ると、ほぼ、この時想像していたコースと一致しています。(別々に祀られた神々とナガオの関係
私が推測していた人々とは、水銀の鉱脈を辿って移動した人々だったのでしょうか。

前回、私の父方の故郷が、徳島県の入田(にゅうた)町であるとのお話をしました。(番外編 月読とオオゲツヒメ
入田でも朱が採取されたとされ、入田という地名も丹生が変化したものと考えられます。
前回のブログをご覧になった方から「私は、同じ徳島の美馬市にルーツがあります」というコメントを頂きました。
私が兎に反応することを知っているその方は、「そこに鎮座する白人(しらひと)神社では、狛犬が兎なんですよ」とも教えてくださいました。
私が、兎に反応するのは、兎が月読尊の化身とされているからです。
鳥取県の八頭町に残る白兎伝説では、兎に姿を変えた月読が、天照を導いたことになっています。
また、前回のブログでは、徳島を拠点とする三日月家の大祖が月読で、だから彼らは兎を狩ったり食べたりすることを禁じられているというお話もしました。
そんな月読脳の私が見ると、白人もハクト=白兎と読めてしまいます。

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▶︎白人神社の兎

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▶︎拝殿にも波兎が彫られているらしい(https://nishiawa.blog.fc2.com/blog-entry-1748.htmlより)

実際に白人神社が月読と関係があるかはわかりませんでしたが、同じ美馬市内に「西照神社」を見つけました。
こちらは「月の宮」とも呼ばれているそうで、月読の匂いがプンプンします。
調べてみたら、やはり祭神は月読と宗像三女神でした。

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▶︎西照神社(ウィキペディアより)

西照神社は、徳島と香川の県境に位置する大滝山の山頂直下に鎮座しているそうです。
こちらの社伝を読んでみると、非常に面白い。

夜の食国(よるのおすくに)を統治する月読尊が、大和方面の監視役として田寸津(タギツ)姫命を大滝山に遣わし、ここから瀬戸内海の監視をさせたことが当神社の起源である。

つまり、月読が宗像三女神の一柱、
田寸津姫を大滝山に遣わして、大和側の海を見張らせたということです。

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立地的にはこんな感じ。
大滝山は946mあるそうなので、もしかしたら瀬戸内海から紀伊水道まで見渡せるのかもしれない。
今度参拝する機会があれば、山上から景色を確認してみよう。
とはいえ、呼ばれないとたどり着けない神社だそうだけど。

宗像三女神といえば、素戔嗚と天照のウケイによって生まれた女神たちです。
月読は素戔嗚や天照と兄弟ではあるけれど、
田寸津姫に指示するなんて、宗像三女神とはどのような関係だったのだろう
 
この西照神社に隣接して、
大瀧寺があるそうですが(四国八十八か所総奥の院 別格霊場二十番札所)、御本尊が西照大権現となっていますので、神仏分離により西照神社から分かれたものでしょう。
こちらには、空海が唐に渡る前に大滝山の崖で修行したとの話が伝わっています。

あれ?
丹のある地域で空海?
丹生都比売に、高野山を開く場所を聞きに行った空海?
丹生族が採取する水銀を、資金源にしたとの説がある空海?
やはり、丹生都比売と関係が深いような……。

そう思って、丹に関係がありそうな神社を何社か調べてみました。

静岡県の袋井にある丹生神社。
こちらにもやはり水銀鉱脈があり、丹生族が祀った神社とされています。
祭神は、月夜見。(月読)

次に、神戸市の裏六甲、その名の通り、丹生族が住んでいたと思われる丹生(たんじょう)山の麓、山田町坂本にある丹生(たんじょう)神社。
こちらは、主祭神はニニギですが、配祀神は丹生津比売(丹生都比売)と月弓(月読)。

そういえば、丹生都比売は天照の妹神とされているけれど、月読は天照の弟です。
でも実は、月読の性別ははっきりとはわかっていないのです。
一瞬、月読と丹生都比売は同一神かとも思いましたが、一説によると丹生都比売は福岡の伊都国発祥なのだそうです。
対して、月読は隼人やその後裔日下部氏が信仰した神とされ、同じ九州でも南部の印象が強いです。
でも、伊都国(現在の福岡県糸島あたり)からは、壱岐島が近く、そこには、全国の月読神社の総社 月読神社があります。(海を渡ってきた月の神
そして、壱岐には、弥生時代の鉄の加工場跡が見つかったカラカミ遺跡があります。(アイアンロード後編

ここからちょっと、妄想を暴走させてみます。

月読を信仰し、南九州を拠点にしていた海人族は、旧石器時代から広範囲に移動し、各地に拠点を持っていました。
弥生時代になって彼らは渡来人と壱岐で交易を始め、互いの技術を生かして徐々に東へと勢力を伸ばしていきました。
もしかしたら両者が結束したことが、神話ではニニギと木花咲耶姫や、海幸彦と豊玉姫の結婚として語られているのかもしれません。
もしくは、月読は素戔嗚と同一神で(そういう説があります)、天照(渡来勢力?)とのウケイは、彼らが何かしらの契約を結んだことを表しているのかもしれません。
だとすれば、西照神社の社伝にあったように、
夜の食国(九州と考えられる)を治めていた月読が、ウケイによって生まれた子どもたち、宗像三女神(別の海人族?)を徳島に派遣したというのも、納得できるような気がします。
 
しかし、丹生族以前に、先に銅鐸を祀る別勢力と手を結んで、ヤマトを治める海人族がいました。
中央構造線を辿り、太平洋側を中心に勢力を伸ばした丹生族に対して、ヤマトは日本海沿岸諸国と、大阪湾周辺を中心に牛耳っていたと考えています。
神話的には、饒速日と長髄彦の連合体と言えるかもしれない彼らと、丹生一族は対立していました。
徳島はたぶんその最前線だったのでしょう。
だから丹生族は、北部九州の勇猛な海人、宗像氏を見張り役として派遣したと考えられます。
 
でも、饒速日が神武天皇が同族である事を知って寝返ったように、丹生と連合を組む海人族が自分たちと同族であると知り、ヤマトの海人族が丹生側についたために、銅鐸祭祀を行う勢力は滅びました。
時代は変わりましたが、海人族、つまり月読を信仰する人々は、その後も変わらず政治の中心に居続けます。
例えるならそれは、幕府が変わっても普遍的な、天皇家のような存在だったのかもしれません。
結局、この後も、幕府が何度も入れ替わったように、月読が組む相手も変わっていったようですが……。
 
最後に、ヤマト側の海人族と考えられる狭穂彦の城跡ともされる、狭岡神社にあったご祭神の系図をご覧ください。(春の女神と悲劇の姫

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月読がいるべき場所に、住吉三神が書かれていることにお気づきでしょうか。
神功皇后は、住吉神の神託を受けて、朝鮮征伐に向かいます。
もしも、住吉神が月読と同一神だとしたら。
神功皇后は戦いの間、出産を遅らせるためにお腹に石を巻いたと言われています。
その石は2つに砕かれて、一つは壱岐の月読神社に、もう一つは京都の月読神社に奉納されたとされていますが、その理由も見えてきそうです。
大阪の住吉大社では、兎が神の使いとされていますしね。
もしかしたら、神功皇后が明石海峡を避けて紀淡海峡の方へ迂回したのも、単に東軍の攻撃をかわすだけでなく、昔のよしみで紀伊国の丹生族に援軍を頼みに行くためだったかもしれませんね。

今回は少し、妄想が過ぎました(汗)

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「剣の皇子」目次
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「剣の皇子」の関連で調べ物をしていたら、「三日月家」について書かれたブログに出会いました。
三日月家とは、正式には粟飯原(あいはら)家といい、徳島県の神山町を拠点とする旧家です。

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▶︎三日月家(粟飯原家)の家紋。九曜の中心が日月。(awa-otoko's blogより引用)

別々に祀られた神々とナガオの関係でも書きましたが、九曜に不思議な縁を感じている私。
しかも、中央が日月になっているなんて、月読尊を探究する身としてはスルーできるはずがありません。
そこに書かれた解説によると三日月家は……。

大宜都比売命(オオゲツヒメ)の神裔である
大宜都比売命がこの地を訪れた時に、食事を提供したことで、粟飯原(あいはら)姓を賜った
●三日月と称する起因は、太祖月読尊に繋がる系譜から
●古来から、兎を狩ったり、食べることは禁じられている
●代々男子が継承し、家主となる者の体には三日月型の痕跡がある

などとなっています。
オオゲツヒメとは、日本神話に登場する女神で、食物の神と言われています。
古事記の中での記述はこうです。

高天原を追放されたスサノオが、
オオゲツヒメに食物を求めると、女神は様々な食べ物でもてなした。
だが、スサノオが調理場をのぞき見ると、ヒメは口や鼻、尻から食材を取り出して調理していた。
「なんて汚い物を食べさせるのだ!」とスサノオが怒ってヒメを斬り殺すと、その頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、
耳からが生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部からが生まれ、尻から大豆が生まれた。

これが日本書紀では、
オオゲツヒメが保食神(うけもち)に、スサノオが月読尊に入れ替わっていますが、ほぼ同じ内容で語られています。
このように類似したエピソードがあるために、スサノオと月読を同一神とする説もあります。

オオゲツヒメは伊勢神宮の外宮に祀られている豊受大神(とようけのおおかみ)とも同一とされますが、真偽は定かではありません。
兎を狩ったり、食することを禁じられているということは、彼らがおそらく兎を神使としているからでしょう。
鳥取の八頭町では、白兎は月読尊の仮の姿とする伝承がありますので、月読を太祖とする彼らなら当然と言えます。
また、家主に三日月型の痕跡があるというのは、もしかしたら焼印か刺青をする習慣があったのかもしれません。

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▶︎アイアンロード後編より、遊牧民が馬に付けていた焼印


以下、とある歴史探究仲間A氏との会話形式で、私の旧姓について、妄想を展開していく過程をお楽しみください。(な=長緒 A=A氏)


な:三日月家のことを調べていて、私の実家の由来について気になる情報がありました。
A:えー!気になるー。
な:先ほど、
オオゲツヒメの話はしましたよね。阿波では、オオゲツヒメの別名は大粟姫なのだそうです。でも私には、大粟が大栗に見えまして……。というのも、私の旧姓は大栗なんです。

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な:気になって調べたら、(徳島では)大栗は大粟が変化したものでした。
オオゲツヒメが降臨した山を大粟山というそうですが、その入り口が入田(にゅうた)というんです。聞き覚えがある地名だったので、実家の母に確認したら、やはり父方の出所でした。
A:素晴らしー!ワナサ→キナサ、こちらも似ていますね。(←これは気付かなかった)

※ワナサとは、
和那散(わなさ=現在の海部郡海陽町鞆浦の古名)を指すと考えられ、阿波から来た人や神を表すと考えられる。丹後の羽衣伝説では、ワナサの夫婦が羽衣を隠し、天に帰られなくなった天女を養女にして酒造りをさせるが、用が済めば家から追い出すことになっている。
A氏は丹後在住なので、丹後の歴史や伝承に詳しい。

な:さらに、以前から気になっている
八倉比売(やくらひめ)神社も近くにあるんです。八倉比売とは、天照大神のことで、現地では天照は卑弥呼のこととされているんです。

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▶︎
八倉比売神社(wikipediaより)

な:ここでは、天照の葬儀の記録が残っています。
A:天照の葬儀の話は聞いたことがあります。
な:水葬される天照をイメージして、イラストを描いたこともあるんですよ。

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▶︎オーディオブック 
高橋御山人の百社巡礼/其之九拾弐 八倉比売神社について、詳しく語られています。

な:確か古墳があって、五角形の井戸もあったような。

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▶︎奥の院にある五角形の磐座。この他、五角形の井戸もある。

ここでA氏が神名辞典で、
オオゲツヒメについて調べてくれました。
そこには、粟国(阿波国)のことを、
オオゲツヒメと呼ぶと書かれていました。

な:阿波は
オオゲツヒメですか!オオゲツヒメは確かに大粟姫ですから、アワの語源かも。大粟山にある大粟神社は上一宮みたいですし。

ここで再び、大栗の語源について。

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な:ちなみに、栃木の大栗も調べましたら、加茂氏の神社がありまして、そこの地名が多田!

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※多田と加茂氏の関係について、詳しくはオオタタネコと熊野の神をご覧ください。

な:佐野市のサノは神武天皇の幼名からだと思ったら、やはりそうでした。
A:よく見つけますよねー。
な:何となく臭うので(笑)

な:
オオゲツヒメは、馬に乗って大粟山へやってきたと言われていますが、(入田を流れる)鮎喰川を船で来たのではないかとの説もありました。多分、大栗は阿波忌部に関係がありそうな気がします。忌部なら、ワナサですね。

「ワナサオオソ神」(大麻比古神、大麻神)は県南部に拠点を構えた阿波忌部族で、その航海力をもって日本海側の石見・出雲・丹後に進出したと言われている。

な:そういえば、ワナサのナサは波という意味だそうで、出雲の稲佐の浜とは一文字違い。ワナサのワは、倭ではないかとありました。
A:豊岡にも奈佐地名がありましたね。

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な:コウノトリの郷の近くですね。(コウノトリの繁殖施設)
A:あーーー!!
な:?

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A:(月出神社の祭神は)月読だ!!
な:出た〜!!
A:同じ地区ですがなーー
な:マジですか
A:マジです!!奈佐川が流れてて、奈佐地区です。
な:びっくり〜!
A:私もかなりびっくりです!!
な:忌部氏は出雲にも行ってますよね。やはりイナサもその関係かも。

な:ちなみに、愛知と東京にも大栗という遺跡があるみたいです。関係があるかどうかは分かりませんが。

※大栗遺跡(愛知県
北設楽郡設楽町)縄文時代早期から 弥生時代前期の遺物が出土。

※大栗川周辺遺跡(東京都多摩市内)縄文時代晩期の新堂遺跡や、約4000年前(縄文時代中期)のヒスイ製品、全国でも数例しか存在しない、縄文時代前期の人面装飾土器等。

A:京丹後市の藤杜(ふじこそ)神社にワナサの祠があり、お祀りされてますわ。本殿の真後ろにあるので、主祭神でしょう。

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▶︎
藤杜神社 (京丹後Picksより)

な:丹波道主(たんばのみちぬし)は、ワナサではないでしょうか?(←単なる勘)

丹波道主 垂仁天皇の皇后日葉酢姫の父。四道将軍として、タニハ(現丹波、丹後、但馬地域)に派遣された。

A:えーーー!それはあるかも!!
な:船岡神社も京丹後でしたよね。あそこは道主の邸宅跡でしたよね。

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▶︎船岡神社(京丹後市)

A:はい。すぐ近くです。
な:月の輪田(つきのわでん)も近いし。

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▶︎月の輪田 豊受大神が天照の為に米作りをしたと伝えられる、月の形をした田。

A:藤杜神社は、比沼麻奈為神社とは、川を渡った磯砂山(いさなごやま)の麓です。
な:天女伝説の!
A:はい。そうです。

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▶︎
磯砂山 日本最古の羽衣伝説発祥地と言われている

な:以前から、日葉酢媛を始めとする道主の娘たちが八乙女のような気がしていました。
A:
羽衣伝説は詳しく言うと二つあるんです。南方系の羽衣天女の話(藤社神社)と、北方朝鮮系(比沼麻奈為神社)と。阿波から伝わったとされるのが、藤社神社側の話です。

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A:やはり、ここが元伊勢だあ!!あちゃー。豊受大神→養蚕の神となってる!!創始者 丹波道主命!!


ー興奮冷めやらぬまま、ここで一旦終了ー



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▶︎
awa-otoko's blogより

な:鮎喰川の由来が分かりました。日神子、ヒミコ!
だから、八倉比女神社では、天照大神が卑弥呼なんですね。
A:なるほどー!私は天照大神説はかなり好きな説です。
な:私もその説に基づいて、小説のなかで卑弥呼の弟を月読にしました
A:あーーーー!そうですよね!


以上
いつもこんな感じで、見解(妄想?)を深めています。
オオゲツヒメは大月姫とも書けるよなぁ。
だとすれば、大月氏と関係あるかも……?
入田では丹が採れたらしいから、ニュウは丹生かな。
なんてね。

ちなみに、私の祖先がここに書かれている通りだという確証はありませんので、あしからず(汗)

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