妄想の餌

2020年06月

「剣の皇子」の関連で調べ物をしていたら、「三日月家」について書かれたブログに出会いました。
三日月家とは、正式には粟飯原(あいはら)家といい、徳島県の神山町を拠点とする旧家です。

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▶︎三日月家(粟飯原家)の家紋。九曜の中心が日月。(awa-otoko's blogより引用)

別々に祀られた神々とナガオの関係でも書きましたが、九曜に不思議な縁を感じている私。
しかも、中央が日月になっているなんて、月読尊を探究する身としてはスルーできるはずがありません。
そこに書かれた解説によると三日月家は……。

大宜都比売命(オオゲツヒメ)の神裔である
大宜都比売命がこの地を訪れた時に、食事を提供したことで、粟飯原(あいはら)姓を賜った
●三日月と称する起因は、太祖月読尊に繋がる系譜から
●古来から、兎を狩ったり、食べることは禁じられている
●代々男子が継承し、家主となる者の体には三日月型の痕跡がある

などとなっています。
オオゲツヒメとは、日本神話に登場する女神で、食物の神と言われています。
古事記の中での記述はこうです。

高天原を追放されたスサノオが、
オオゲツヒメに食物を求めると、女神は様々な食べ物でもてなした。
だが、スサノオが調理場をのぞき見ると、ヒメは口や鼻、尻から食材を取り出して調理していた。
「なんて汚い物を食べさせるのだ!」とスサノオが怒ってヒメを斬り殺すと、その頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、
耳からが生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部からが生まれ、尻から大豆が生まれた。

これが日本書紀では、
オオゲツヒメが保食神(うけもち)に、スサノオが月読尊に入れ替わっていますが、ほぼ同じ内容で語られています。
このように類似したエピソードがあるために、スサノオと月読を同一神とする説もあります。

オオゲツヒメは伊勢神宮の外宮に祀られている豊受大神(とようけのおおかみ)とも同一とされますが、真偽は定かではありません。
兎を狩ったり、食することを禁じられているということは、彼らがおそらく兎を神使としているからでしょう。
鳥取の八頭町では、白兎は月読尊の仮の姿とする伝承がありますので、月読を太祖とする彼らなら当然と言えます。
また、家主に三日月型の痕跡があるというのは、もしかしたら焼印か刺青をする習慣があったのかもしれません。

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▶︎アイアンロード後編より、遊牧民が馬に付けていた焼印


以下、とある歴史探究仲間A氏との会話形式で、私の旧姓について、妄想を展開していく過程をお楽しみください。(な=長緒 A=A氏)


な:三日月家のことを調べていて、私の実家の由来について気になる情報がありました。
A:えー!気になるー。
な:先ほど、
オオゲツヒメの話はしましたよね。阿波では、オオゲツヒメの別名は大粟姫なのだそうです。でも私には、大粟が大栗に見えまして……。というのも、私の旧姓は大栗なんです。

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な:気になって調べたら、(徳島では)大栗は大粟が変化したものでした。
オオゲツヒメが降臨した山を大粟山というそうですが、その入り口が入田(にゅうた)というんです。聞き覚えがある地名だったので、実家の母に確認したら、やはり父方の出所でした。
A:素晴らしー!ワナサ→キナサ、こちらも似ていますね。(←これは気付かなかった)

※ワナサとは、
和那散(わなさ=現在の海部郡海陽町鞆浦の古名)を指すと考えられ、阿波から来た人や神を表すと考えられる。丹後の羽衣伝説では、ワナサの夫婦が羽衣を隠し、天に帰られなくなった天女を養女にして酒造りをさせるが、用が済めば家から追い出すことになっている。
A氏は丹後在住なので、丹後の歴史や伝承に詳しい。

な:さらに、以前から気になっている
八倉比売(やくらひめ)神社も近くにあるんです。八倉比売とは、天照大神のことで、現地では天照は卑弥呼のこととされているんです。

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▶︎
八倉比売神社(wikipediaより)

な:ここでは、天照の葬儀の記録が残っています。
A:天照の葬儀の話は聞いたことがあります。
な:水葬される天照をイメージして、イラストを描いたこともあるんですよ。

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▶︎オーディオブック 
高橋御山人の百社巡礼/其之九拾弐 八倉比売神社について、詳しく語られています。

な:確か古墳があって、五角形の井戸もあったような。

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▶︎奥の院にある五角形の磐座。この他、五角形の井戸もある。

ここでA氏が神名辞典で、
オオゲツヒメについて調べてくれました。
そこには、粟国(阿波国)のことを、
オオゲツヒメと呼ぶと書かれていました。

な:阿波は
オオゲツヒメですか!オオゲツヒメは確かに大粟姫ですから、アワの語源かも。大粟山にある大粟神社は上一宮みたいですし。

ここで再び、大栗の語源について。

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な:ちなみに、栃木の大栗も調べましたら、加茂氏の神社がありまして、そこの地名が多田!

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※多田と加茂氏の関係について、詳しくはオオタタネコと熊野の神をご覧ください。

な:佐野市のサノは神武天皇の幼名からだと思ったら、やはりそうでした。
A:よく見つけますよねー。
な:何となく臭うので(笑)

な:
オオゲツヒメは、馬に乗って大粟山へやってきたと言われていますが、(入田を流れる)鮎喰川を船で来たのではないかとの説もありました。多分、大栗は阿波忌部に関係がありそうな気がします。忌部なら、ワナサですね。

「ワナサオオソ神」(大麻比古神、大麻神)は県南部に拠点を構えた阿波忌部族で、その航海力をもって日本海側の石見・出雲・丹後に進出したと言われている。

な:そういえば、ワナサのナサは波という意味だそうで、出雲の稲佐の浜とは一文字違い。ワナサのワは、倭ではないかとありました。
A:豊岡にも奈佐地名がありましたね。

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な:コウノトリの郷の近くですね。(コウノトリの繁殖施設)
A:あーーー!!
な:?

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A:(月出神社の祭神は)月読だ!!
な:出た〜!!
A:同じ地区ですがなーー
な:マジですか
A:マジです!!奈佐川が流れてて、奈佐地区です。
な:びっくり〜!
A:私もかなりびっくりです!!
な:忌部氏は出雲にも行ってますよね。やはりイナサもその関係かも。

な:ちなみに、愛知と東京にも大栗という遺跡があるみたいです。関係があるかどうかは分かりませんが。

※大栗遺跡(愛知県
北設楽郡設楽町)縄文時代早期から 弥生時代前期の遺物が出土。

※大栗川周辺遺跡(東京都多摩市内)縄文時代晩期の新堂遺跡や、約4000年前(縄文時代中期)のヒスイ製品、全国でも数例しか存在しない、縄文時代前期の人面装飾土器等。

A:京丹後市の藤杜(ふじこそ)神社にワナサの祠があり、お祀りされてますわ。本殿の真後ろにあるので、主祭神でしょう。

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▶︎
藤杜神社 (京丹後Picksより)

な:丹波道主(たんばのみちぬし)は、ワナサではないでしょうか?(←単なる勘)

丹波道主 垂仁天皇の皇后日葉酢姫の父。四道将軍として、タニハ(現丹波、丹後、但馬地域)に派遣された。

A:えーーー!それはあるかも!!
な:船岡神社も京丹後でしたよね。あそこは道主の邸宅跡でしたよね。

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▶︎船岡神社(京丹後市)

A:はい。すぐ近くです。
な:月の輪田(つきのわでん)も近いし。

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▶︎月の輪田 豊受大神が天照の為に米作りをしたと伝えられる、月の形をした田。

A:藤杜神社は、比沼麻奈為神社とは、川を渡った磯砂山(いさなごやま)の麓です。
な:天女伝説の!
A:はい。そうです。

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▶︎
磯砂山 日本最古の羽衣伝説発祥地と言われている

な:以前から、日葉酢媛を始めとする道主の娘たちが八乙女のような気がしていました。
A:
羽衣伝説は詳しく言うと二つあるんです。南方系の羽衣天女の話(藤社神社)と、北方朝鮮系(比沼麻奈為神社)と。阿波から伝わったとされるのが、藤社神社側の話です。

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A:やはり、ここが元伊勢だあ!!あちゃー。豊受大神→養蚕の神となってる!!創始者 丹波道主命!!


ー興奮冷めやらぬまま、ここで一旦終了ー



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▶︎
awa-otoko's blogより

な:鮎喰川の由来が分かりました。日神子、ヒミコ!
だから、八倉比女神社では、天照大神が卑弥呼なんですね。
A:なるほどー!私は天照大神説はかなり好きな説です。
な:私もその説に基づいて、小説のなかで卑弥呼の弟を月読にしました
A:あーーーー!そうですよね!


以上
いつもこんな感じで、見解(妄想?)を深めています。
オオゲツヒメは大月姫とも書けるよなぁ。
だとすれば、大月氏と関係あるかも……?
入田では丹が採れたらしいから、ニュウは丹生かな。
なんてね。

ちなみに、私の祖先がここに書かれている通りだという確証はありませんので、あしからず(汗)

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「剣の皇子」目次
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前回に引き続き、今回も忍熊兄弟について書いていきたいと思います。
逢坂(滋賀県大津市)の瀬田川で入水し、宇治川で遺体が見つかったとされる忍熊皇子ですが、ある場所には、彼がその後も生き延びたとの伝承が残っています。
その場所とは、福井県の劔神社です。

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▶︎劔神社

こちらの伝承によると、忍熊は密かに、近臣と近江から敦賀へ逃れたとあります。
敦賀からさらに北国を目指した忍熊は、そこから海に出て北上しようとしましたが、大しけに遭い、遭難しそうになっていたところを漁師に救われ、浦長(うらおさ)の屋敷へ招かれました。
忍熊が都人であると知った長は、彼を丁重にもてなし、その席で、山から下りてきては浦で悪事を働く賊徒に悩まされていると話します。
浦人たちを哀れんだ忍熊は、近臣と浦の若者たちを集めて賊徒の征伐に向かいましたが、山での戦いになれた賊を相手に、苦戦を強いられます。
決着がつかないまま、しばらく経ったある日、洞窟でひとときの休息をとっていた忍熊は、戦いの疲れもあってか、そのまま眠りについてしまいます。
すると、夢の中に一人の老人が現れ、手にした剣を彼に差し出してこう言いました。

「皇子、努力せよ。われ、今なんじにこの霊剣を授くべし。これを斎(いつ)き奉らば、賊徒は直に平定すべし。われは素戔嗚命(スサノオノミコト)なり」

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▶︎忍熊の夢に現れた素戔嗚 劔神社のホームページより 

夢のお告げどおり、皇子が神劔を奉じて再び戦いに挑むと、賊徒を征伐できたといわれています。
劔神社は、もともと伊部の郷(現在の織田)の住民が、孝霊天皇の時代に座ケ岳の峰にスサノオの神霊を祀ったのが始まりとされています。
その後、垂仁天皇の御代になって、伊部臣(いべのおみ)という郷民の長が、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこ)が鳥取川上宮(ととりかわかみのみや)で作らせた神剣を、スサノオの御神体として奉斎し、「劔の大明神」と称えて崇めたと伝えられています。
その神剣をスサノオより手渡されたということは、忍熊は伊部の地で王として認められたということを表しているのかもしれません。

そのことを物語るかのように、賊徒を征伐した忍熊は、山野を開いて田畑を作り、農蚕に勤しむよう人々を導いたとされています。
やがて開発が進み、人々の生活や心が安定してくると、皇子は
座ケ岳の峰の劔の大明神を伊部の地に遷して祀ったとされ、これが劔神社の起源と言われています。

さて、ここまででいくつか気になるキーワードが出てきました。
まずは「佐紀は狭城」でも登場した五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこ)。

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▶︎宇土墓古墳(大阪府岬町)五十瓊敷入彦命の墓に比定されています。

彼は、垂仁天皇と日葉酢姫との間に生まれた皇子で、私は「剣と治水事業の皇子」と呼んでいます。
なぜなら彼は、日本最古のダム式ため池、狭山池をはじめとする治水事業を各地で手がけ、石上神宮に剣千口を納めた人物とされているからです。
 

そんな彼が作らせた剣が、劔神社にも祀られているということになります。
つまりこれは、時の政権が勢力圏にあった地域に、有事に備えて武器庫を配備したということではないかと、私は想像しています。

その名に「五十」を持つ
五十瓊敷入彦は、忍熊が治めていた佐紀政権に、近しい人物であったと考えられます。
だとすれば佐紀の勢力範囲は、この時点で少なくとも越前(福井県)まで及んでいたことになるのではないでしょうか。
遭難しかけたところを漁師に助けられ、偶然この地を訪れたかのように書かれている忍熊皇子ですが、ここが佐紀政権の勢力圏であったとなると、事情が変わってきます。

ここで思い出していただきたいのが、忍熊と行動を共にし、日本書紀では逢坂で皇子と共に川に身を投げたと伝わる
五十狭茅宿禰(いさちのすくね)の存在です。
彼の名にも、「五十」が入っていますね。
もしかしたら、彼が
五十瓊敷入彦命により近い人物で、忍熊を越前へ導いた張本人なのかもしれません。
胸刺(武蔵)国造の祖とも言われる
五十狭茅宿禰は、別名を海上五十狭茅(うながみのいさち)とも言います。

ここでちょっと混乱してきそうなので、ポイントを箇条書きにしてみます。

■五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこ)が、劔神社の御神体である剣を作らせた場所は鳥取川上宮(ととりかわかみのみや)

鳥取川上宮とは、別名菟砥川上宮(うとのかわかみのみや)

菟砥川上宮とは、五十瓊敷入彦命石上神宮に納めた剣千口を作らせた場所

菟砥川上宮海上五十狭茅=「ウ」

菟砥川上宮茅渟(ちぬ)にあった

五十狭茅宿禰=「茅」=茅渟

つまり、石上神宮の剣も、劔神社の剣も、
五十瓊敷入彦命が同じ場所(茅渟)で作らせたものということになりますね。

石上神宮
▶︎石上神宮(奈良県天理市)
 
茅渟とは現在の大阪府阪南市のあたりとされており、菟砥川上宮の別名が鳥取川上宮とあるように、この地域を鳥取と呼んでいた可能性があります。
そのことを裏付けるかのように、この地域には今も「
鳥取」や「和泉鳥取」といった地名が残されています。

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▶︎玉田山古墳群 和泉鳥取駅の西約1kmの玉田山公園の中にある古墳群
玉田山東麓に
菟砥川上宮(鳥取川上宮)跡の碑があります。

そして茅渟の語源は、神武天皇の兄である
彦五瀬命(ひこいつせのみこと)が、生駒山でナガスネヒコと戦った際に負った傷を洗い流したために、血の色に染まった大阪湾を茅渟(血沼)の海と呼んだからと言われています。(諸説あり)
阪南市を含む大阪府南西部は、和泉国の南部を意味する泉南と呼ばれ、神武天皇とその兄、
彦五瀬命にまつわる神社がいくつかみられます。

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▶︎男神社 
彦五瀬命が無念の雄叫びをあげた場所とも言われている

同じく、泉南地域にある泉佐野市の地名も、おそらくは神武天皇の幼名「狭野」からきているのでしょう。
前回、
「ウ」がウガヤフキアエズを意味するのでは?とのお話をしましたが、「ウ」が付く菟砥川上宮があったとされる地域に残されたウガヤフキアエズの子供達(神武と五瀬)の伝承とサノの地名。
これらの要素を合わせた名を持つ、五十狭茅宿禰(海上五十狭茅)。
そんな彼が忠義を尽くし、五十瓊敷入彦が作った剣を御神体として祀る伊部の地の人々から王と呼ばれた忍熊皇子。
彼はいったい、何者だったのでしょうね。

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▶︎劔神社の境内に建てられた歌碑


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「剣の皇子」目次

〜個人的メモ〜

ウはウトの可能性も?
岬はミ+サキ?
淡輪は、淡路と三輪?
岬町にも加茂氏の形跡
イツセとイセ
船岡神社=京都市内と京丹後にも
京丹後の船岡神社=比沼真名井神社と月輪田 丹波道主居住跡
丹生都比売神社=神功皇后創建
五十=イ=イツセ?
イニシキイリヒコの母は日葉酢姫=丹波道主の娘
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しばらく忍熊皇子(おしくまのみこ)の話題がないとお思いの方がいらっしゃるかもしれませんが、実はこれまでお話してきた内容は、全て私の中では繋がっています。
どこから話せばわかりやすいかと、自分なりに考えながら書いているつもりですが、話があちこちに飛んでいるように見えていたらごめんなさい。


今回は、いったん原点の忍熊に戻ってお話しますね。
忍熊が仲哀天皇の前妻の子であり、後妻である神功皇后の子、応神天皇によって滅ぼされたことは、すでにお話した通りです。
今回は、もう少し経緯を細かくみていきましょう。

まずは忍熊の兄である、坂皇子(かごさかのみこ)の運命からお話していきます。
佐紀の都で、畿内を中心とする広範囲を治めていた
坂と忍熊の兄弟の元に、神功皇后が幼い誉田別(ほむたわけ=後の応神天皇)を連れて筑紫(九州)から帰ってくるという知らせが届きます。
仲哀天皇の後妻の子である誉田別は、彼らにとっては腹違いの弟になります。
筑紫で天皇が崩御したあと、単身で三韓征伐に趣き、見事に勝利をおさめた神功皇后は、三韓を支配下におき、また筑紫の勢力をも味方につけて、瀬戸内海沿岸の要所に住吉の神を祀りながら、凱旋してきたと言われています。
在地の神ではなく、自身が信仰する神を祀らせるということは、その国を制圧したことと同意です。
西から勢力を拡大しながら迫ってくる
誉田別の軍(以後、西軍)に、坂兄弟は皇位を奪われるだけでなく、身の危険も感じていたはずです。

そこで彼らは、まず、西からの瀬戸内海航路の砦となる明石海峡のそばに、父の墓であるという名目で古墳を築き、そこに陣を張ります。
それが、五色塚古墳でしたね。

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▶︎五色塚古墳

この時、
坂は倉見別犬上君の祖)と五十狭茅宿禰(いさちのすくね)を、彼らの軍(以後、東軍)の将軍に立てています。

五十狭茅宿禰

五十と狭(サ)を名に持ち、佐紀政権と関係が深いと思われるこの人物は、武蔵(胸刺)国造の祖とも言われており、佐紀政権の勢力が関東にまで及んでいたことを推測させます。(「佐紀は狭城」参照)

次に麛坂は、この戦いに勝利できるかを、狩りによって占う祈狩/うけいがり)ことにします。
これは、獲物を見事に倒せたら、戦いに勝利できるという占いなのですが、大猪に挑んだ
坂は反対に食い殺され、うけいは失敗に終わります。
この時、
坂が狩りを行ったのが菟餓野(とがの)という地でした。

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菟餓野の比定地については諸説ありますが、こちらはその中の一つ、大阪府北区に残る地名です。
「菟=兎=ウ」
ということと、
坂が猪に殺されたということを覚えておいてください。

凶兆に恐れを抱いた忍熊は、いったん住吉まで後退しますが、西軍が明石を避けて紀伊から上陸したと聞くと、さらに退いて宇治(菟道)で陣を張ります。
菟道=ウ」

ここで武内宿禰武振熊和珥臣の祖)を将軍とする西軍と対戦した忍熊でしたが、相手方の策略にはまり、あえなく敗北。
逢坂(滋賀県大津市)まで逃走します。
そこで逃げ場を失った
忍熊は、五十狭茅宿禰とともに瀬田川に身を投じ、その遺体は数日後、宇治菟道)川で見つかったとされています。
菟道川=ウ」

このように、
忍熊たちのエピソードには、やたらと「ウ」がつく地名が登場します。
しかも、旧地名を見ると、いずれも菟です。
これには何か意味があるのでしょうか。

そのヒントになるかもしれない場所が、日向(宮崎県)にあります。

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▶︎鵜戸神宮(うどじんぐう)Wikipediaより引用

こちらはウガヤフキアエズを祭神とする神社で、山幸彦の妻、豊玉姫が産屋を建てた場所と言われています。(産屋に関しては「別々に祀られた神々と、ナガオの関係」をご参照ください)
つまり、ウガヤフキアエズが生まれた場所ということですね。
そして、この神社では、兎が神の使いとされています。

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こちらに写っている看板にもあるように、この地域では
ウガヤフキアエズの「ウ」は、一般的に言われている鵜ではなく、兎とされているのです。
 
ここで、日向、山幸彦、豊玉姫ときたら、何かを思い出しませんか?
ヒントはこちら→「春の女神と悲劇の姫

そう、日向には、忍熊たちと祖先を同じくする日下部氏発祥の地、都萬(つま)神社がありましたね。
 
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▶︎
都萬神社

また、都萬神社の「ツマ」は、祭神であるコノハナサクヤヒメのことではないかというお話も以前しました。
ここで一度、ウガヤフキアエズまでに至る系図を整理してみましょう。

日下部氏系図
こうしてみると、ウガヤフキアエズが、山の神の系統と海の神の系統のハイブリッドであることがわかります。
さらに彼は、母の妹で叔母に当たる玉依姫を妻にすることで、さらに海神の血を濃くしています。
そうして生まれたのが、神武天皇です。
神武天皇の幼名は、狭野(サノ)といい、佐賀県にある
狭野神社は、彼が生まれた場所と言われています。

佐紀、佐保、狭穂、若狭……。
ウガヤフキアエズが「ウ」ならば、神武天皇は「サ」。
このように考えていくと、コノハナサクヤヒメのサも、「咲」ではなく「狭」で、山の神の系統を表しているのかもしれません。
佐紀を拠点とし、「ウ」がつく地名に多くの伝承を残した
忍熊兄弟。
彼らが消された理由も、もしかしたらこの辺りに隠されているのかもしれませんね。


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前回は、私の故郷、川西に住んでいた三輪氏のお話をしました。(「オオタタネコと熊野の神」)
そして、その後も調べていく中で、川西周辺に「長尾」と名がつく場所が多いことがわかりました。

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北に長尾山、南に長尾丘陵があり、そこには長尾山古墳があります。
長尾山古墳からは須恵器が出土しており、三輪氏の祖、オオタタネコとの繋がりが感じられます。
地図上の「池田市」の文字の辺りは五月山と呼ばれる山で、そこにある五月ヶ古墳から、須恵質の陶棺が見つかっていることも、前回お知らせした通りです。
これらを総合すると、現在の川西市、宝塚市、池田市の三市にまたがる広い範囲に、三輪氏が勢力を伸ばしていたように思われます。
また、北の長尾山の付近には、能勢妙見への参拝道があり、別名は長尾街道といいます。
このような事柄から「私って、ナガオにご縁があるみたい」とSNSに投稿したところ、ある方から「市磯長尾市(いちしのながおち)と関係あるかも」とのコメントをいただきました。

前回、崇神天皇の時代に国が乱れた時、オオタタネコに三輪山の大物主を祀らせたら鎮まったというお話もしました。
実はこの時、オオタタネコ以外にも、別の神を祀るように命じられた人物がいました。
それが、市磯長尾市です。
長尾市が祀ったのは倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)で、天理市の大和(おおやまと)神社の祭神です。

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▶︎大倭神社

つまり、オオタタネコと長尾市は、同時期に別の神を祀ることで、国を安泰に導いたのです。
オオタタネコの子孫がいた川西周辺に残る「長尾」という地名。
これは単なる偶然でしょうか?

同じ投稿には、別の方からも「私、長尾という場所に住んでいたことがあるんです」とのコメントをいただきました。
その方は大分在住なので、大分に長尾という地名があるのかなと思い、「大分 長尾」でGoogleマップを検索してみました。(後ほど、その方が住んでいたのは、福岡県長尾市だと教えていただきました)

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すると、豊予海峡周辺に、長尾を屋号にする企業が集中していました。
周辺に長尾という地名は見当たりませんでしたが、地図上には雄鹿長尾ノ峰や長尾橋、長尾野神社という文字が見られますので、この辺りが「長尾」と呼ばれていた可能性があります。
私は最近、豊予海峡に非常に注目しています。
というのも、九州からこの海峡を渡って、四国経由で東を目指した人々がいるのではないかと思っているからです。
自著「ラスト・シャーマン」の中でも、主人公たちは伊予(愛媛)から筑紫島(九州)へ上陸しますが、執筆時は単純に「四国と九州ってむっちゃ近いやん!」と思ったからそうしただけで、深い意味はありませんでした。
しかしその後、調べていくほどに「このルートが重要であったのでは?」との思いが強くなっていきました。

私がこの地域に「長尾」という字を見つけて驚いた理由はもう一つあります。
それは、先ほど登場した長尾市が、椎根津彦(しいねつひこ)の子孫とされているからです。
椎根津彦は、大倭国造の祖といわれ、別名 珍彦(うずひこ)、倭宿禰(やまとのすくね)とも呼ばれています。

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宿禰像(籠神社)

宿禰は、神武天皇が速吸門(はやすいのと)を通りかかった時に亀に乗って現れ、皇軍を案内した功績を認められて、大倭国造に任命されたとされる人物です。
彼は丹後の籠(この)神社宮司家、海部(あまべ)氏の四代目の祖とされ、籠神社の境内には彼の像があります。(籠神社と海部氏については「丹後海部氏と、2つのカブト山」をご参照ください)

少し遠回りしましたが、この神武天皇が
宿禰と出会った場所「速吸門」が豊予海峡の別名「速吸瀬戸」との説があるのです。(諸説あり)
この説が本当なら、海部氏は海人族と考えられますから、流れが早くて航海が困難とされる豊予海峡を、巧みに船を操って横断し、神武天皇の東征の手助けをしたということなのでしょう。
そんな海部氏と、大倭神社の最初の祭主
市磯長尾市が、同じ祖先で繋がっているということになります。
四国には阿波海部(かいふ)氏がおり、読み方は異なりますが、こちらも無関係とは思えません。

オオタタネコの祖神大物主は、大国主の荒御霊ともいわれ、出雲系の可能性があります。
一方の
長尾市と同じ祖を持つ海部氏が籠神社で祀る彦火明命は、ニギハヤヒの別名ともいわれ、だとすれば物部氏の祖ということになります。
「同じ場所で祀るとよくないので、別々に祀れ」との神託があったとされる大物主と倭大国魂神。(詳しくはウィキペディア「オオタタネコ」をご参照ください)
崇神天皇はイリ族、先代の開化天皇はネコ族、オオタタネコはおそらくネコ族。(「春の女神と悲劇の姫」参照)
崇神天皇がネコ族の祟りを恐れて、オオタタネコに大物主を祀らせたのだとしたら、この時代以前にいったい何があったのでしょうね。


少し話しが変わりますが、私が「長尾」について投稿した同じ日に、ある方が投稿していた内容に目が止まりました。
それは、「黄幡神(おうばんしん)」についての投稿でした。
黄幡神とは九曜の一つで、元々はインド神話に登場するラーフという蛇神で、災害をもたらす神として恐れられていたそうです。
九曜とは、インド天文学やインド占星術が扱う9つの天体と、それを神格化した神で、ラーフは月の神だそうです。
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▶︎ラーフ(ウィキペディアより引用)両手に月を持ってるよね?

「月の神?!」
と、思わず取り乱してしまいそうになる気持ちを抑えて、先に進みましょう。

その月の神ラーフが日本に伝来して、日食を引き起こしたスサノオと習合したとされています。(日食を引き起こしたというのは、スサノオの行いにより、天照大神が天岩戸に隠れたことをさしているのでしょうか)

黄幡神にはいくつかの種類があり、日月黄幡神や日食(月食)黄幡神と分類されるものもあるそうです。(日月黄幡神がスサノオの性質を継承したものと言われています)
自著「ラスト・シャーマン」の中で、日食はとても重要な役割を担っていることもあり、興味を持ってさらに読み進めていくと、九鬼氏が九曜を家紋としたとありました。
九鬼氏と言えば、戦国時代の九鬼水軍を思い出す方が多いかと思いますが、私は福知山市の大原神社を最初に思い浮かべます。

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▶︎大原神社

こちらの祭神は、イザナミ、アマテラス、そして月弓尊(つくよみのみこと)です。
月弓は字は違いますが月読と同神ですね。
大原神社は、綾部藩主九鬼侯が深く信仰したとされ、神社が鎮座する地域は九鬼氏の里なのだそうです。
神社の近くには、近年まで九鬼氏が使っていたと言われる産屋が復原されています。

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産屋とは、出産を控えた妊婦が、産褥期までを過ごす建物で、海人族の風習とされています。
産屋といえば、山幸彦の妻、豊玉姫がウガヤフキアエズを出産する際のエピソードが有名です。
お腹の子が自分の子でないのでは?と疑いを持つ山幸彦に、豊玉姫は「炎の中で無事生まれればあなたの子、神の子で間違いないということですから!」とうけい(占い)をたてて産屋に火を放ちます。
豊玉姫の父はワタツミですから、海神、海人族ですね。

また、春の女神と悲劇の姫」で登場した狭穂彦は、稲城に火を放って妹の狭穂姫と心中します。
稲城についての詳しい記述は見当たりませんが、その名から想像するに、産屋のように藁や葦で作った建物だったのかもしれません。
日下部氏の祖とされる狭穂彦も、やはり海人族です。
出産が終わった産屋は焼くという習慣があるそうで、火をつけるという点でも、これらのエピソードには共通点が見られます。

そんな九鬼氏の九曜の家紋がこちら。
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 どこかで見覚えがあると思ったら、去年、アンティークで購入した着物についていた家紋でした。

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もちろん購入時は、この家紋が九鬼氏のものだなんて知りませんでした。
一目惚れをして買った着物だけど、もしかしたらそれ以上のご縁があったのかな。
さらに深読みして見てみると、この着物の模様は……。

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葵。

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▶︎加茂神社(川西市)

三輪氏と同族とされる加茂氏系の神社によく見られる社紋も葵。
この着物の元の持ち主は、何か意図があってこの着物の柄を選んだのでしょうか。

そして、九曜を家紋とする氏族が他にもないかと調べていたら…。

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まじか…。
 

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