妄想の餌

創作家の長緒 鬼無里(ながお きなさ)です。
古代の魅力を広く伝えるために、文章やイラストなど、さまざまな媒体を用いて表現活動を行なっています。
こちらのブログでは、主に古代、神話、歴史など、興味のある分野で得た情報や、そこから広げた妄想などを、自身の備忘録として書き留めていこうと思います。

現在の唐獅子風の狛犬は、江戸時代以降に広まったもので、それ以前には、犬や狼の姿をしていたものが多かったそう。(香取神宮や鹿島神宮の狛狼は、鎌倉時代作と考えられているそうです)
狛犬には詳しくないのですが、少し調べてみると、狼信仰というものもあるそうです。
現在は、絶滅してしまった日本狼ですが、昔は自然界の最上位にあり、農耕にとって害獣である鹿や猪を食べてくれることから信仰されていたようです。
牧羊中心だった中世西洋では、童話でも狼が悪者として描かれる事が多いのですが、生活スタイルにより敬う動物が変わるというのも、興味深いですね。
北近畿地域で月読や海人族縁の神社を巡っていても、よく狛狼を見かけます。
月読の化身は兎とされていますので狛兎も多いのですが、弱肉強食の関係で考えると、真逆のイメージである狼が、神の眷属として控えているのが不思議な気がします。
秩父の三峯神社には、ヤマトタケルが山道で迷った時、狼が道案内をして無事に社地の辺りに到着できたと伝えられているそうです。
命拾いをしたヤマトタケルは、この地に伊奘諾と伊邪那美を祀り、狼を眷属としたそうです。
ヤマトタケルは、猪に襲われたことが原因で命を落としますが、その天敵である狼を、というのも面白いですね。
ヤマトタケルは、各地で開拓や干拓の技術を広めていた様子が伺えるので、農地を荒らす猪を敵とみなしていたのかもしれませんね。
ちなみに、山峯神社は文字通り山岳信仰と考えられますが、三ツ鳥居があるそうです。
三ツ鳥居といえば、私は三輪の大神(オオミワ)神社を思い出します。
大神神社も、三輪山を御神体としており、拝殿の奥には神様の出入口として三ツ鳥居が立っています。
大神(オオカミ)と狼……というのは、考え過ぎかな。

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養父神社の狛狼

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二ノ宮神社(祭神 月読)

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大原神社(祭神 月読)

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大虫神社(和犬の狛犬)
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月読尊が降臨したのが桂の木であるとの事で、朝来市にある樹齢2000年ともいわれる桂の巨木に連れて行っていただきました。【覚書】桂と葛と葵

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▶︎樹齢2000年 糸井の大桂

行きすがら、巨石が横たわる渓流を見て、山全体が神域のように感じましたが、後から聞いた話によると、ここは天日槍が鉄を求めて降りたった場所、鉄鈷山なのだそうです。
地図で確認すると、山の北西には天日槍が領地にしたとされる出石町が位置しており、関連性を感じます。

渓流の名は糸井川。
この地域も糸井といいます。
但馬地方は養蚕が盛んな地域ですから、糸井というのは織物の糸を指していると思われます。

奈良県の磯城郡にある糸井神社は、糸井連(いといのむらじ)創建と伝えられ、彼らは天日槍の子孫とも言われています。
天日槍については諸説ありますが、新羅の王子との説を採用すれば、朝鮮半島から製鉄や機織りなどの技術を持ち込んだとも考えられますね。

朝来の隣町の養父では、養蚕の資料館も見学させていただきました。



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▶︎機織りの道具、筬(おさ)。生地のきめ細かさを左右する道具のため、当時のハイテク技術だと考えています。材料が竹というのも、意味深。

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▶︎杼(ひ)。素戔嗚が殺した機織女は、ホトに杼が刺さって亡くなったとされています。


養父は、日下部氏やその後裔、朝倉氏が拠点とした地域で、こちらでも養蚕が盛んでした。
日下部氏が祀る二ノ宮神社を二社(同じ地域に、二ノ宮神社が2社あります)参拝しましたが、いずれも祭神は月読尊。

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日下部氏は、開化天皇の皇子、彦坐王(ひこいますのおう)を祖とする海人族ですが、浦島太郎伝説のモデルともいわれる丹後の浦島子(うらのしまこ)も、日下部氏であったとの説があります。
彼らは月読尊を信仰していたと言われており、タニハとも呼ばれる丹後、丹波、但馬地域には、月読を祀る神社が数多く見られます。

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▶︎養蚕の神は、日下部氏が祀る月読か。それとも、月読が殺し、その死体から蚕を生み出した保食神か。


天日槍の子孫、糸井連と日下部氏。彼らはどういう関係だったのでしょうか。

馬が渡来する以前の日本では、航路を制する海人族が、政治的にも掌握していたと考えられます。
そこにやってきた渡来人たち。
優れた技術を持つ彼らですが、あくまでも少数派。
ですから渡来人は、技術を提供する代わりに日本での市民権を得、海人族は彼らを受け入れる代わりに技術を得て発展するという、ウィンウィンの関係であったのではないかと想像しています。

潮を読み、月を読む事で、長距離の航海を可能にしていた海人族は、月読尊を信仰していたとされています。
その月読尊と、当時の人々からすれば、神の力にも思えたであろう技術を持つ渡来人の姿が融合し、海人族の信仰対象になったのではないかと考えています。
そうして海人族は、渡来人や、渡来人から得た技術を船に積み込み、全国各地に漕ぎ出していきました。

ちなみに、朝来の糸井と、翡翠の産地として有名な糸魚(イトイ)川の関連性が気になり調べてみたところ、こちらにも糸井連が移住してきたとの資料を見つけました。


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▶︎糸魚川市サイトより


そして驚くことに、養父の加保という地域からも、翡翠が産出されているのです。



糸井と糸魚川に共通する翡翠。
これは、何を意味するのでしょうか。

ただ、糸魚川の翡翠は、遠方の縄文遺跡からも発見されていますから、糸井連が移住する以前から、海人族が流通させていたような気もしています。
それとも、糸井連や秦氏など、氏を名乗るずっと以前から、渡来人は海人族と協力し合って、活躍していたのかもしれませんね。
……というか、私はそう思っています。
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三重編は完結したつもりでしたが、コメント欄での皆さんとのやり取りから、書きたい事がまた色々出てきました。
興味のある方は、今しばらくお付き合いください。
(三重編バックナンバーはこちら→ 伊賀 名張 松阪 )

以前、伊賀にはもともと秦氏が住んでいて、後からやってきた阿閉(アベ)氏と共存したというお話をしました。
ところが伊賀には、阿閉氏とは別に、阿保(アボ)氏と呼ばれる人々がいて、もともとは彼らが、伊賀国造を任じられていたそうです。
阿保氏は、伊賀の南、現在の青山辺りを拠点とし、阿閉氏は北の敢國(あえくに)神社の辺りを拠点としていました。
つまりこの頃の伊賀では、阿保氏の方が優勢だったのですね。

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▶︎壬申の乱以前には、伊賀の北、伊賀上野の辺りには阿閉氏、南の青山辺りには阿保氏がいたとされています。以前ご紹介した美旗古墳群は、青山のすぐそばです。

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▶︎伊賀から名張への道からは、山の上に大量の風車が見えましたが、あの辺りが青山だったのですね。青山リゾートで知られていますが、景観がこんなに素晴らしいとは。阿保氏が拠点としたのも、納得。

しかし、その関係が逆転する事態が発生します。
天武天皇が壬申の乱を起こしたのです。
この時、阿閉氏は天武天皇に協力しましたが、阿保氏はしませんでした。
結果、勝利した天武天皇に認められ、阿保氏に替わって阿閉氏が伊賀を治めることになったのです。

この阿保氏、出自を調べてみるとニ系統あり、それぞれ、垂仁天皇の腹違いの兄弟を祖としているようです。
伊賀の阿保氏は、祖先である息速別命(いきはやわけのみこと)が伊賀の阿保に領地を与えられたのが始まりとされており、於知別命(おちわけのみこと)を祖とする方は、滋賀県の栗東辺りに居住したとされています。

両者が同族だとすると、天武天皇と敵対した大友皇子は、滋賀の大津に宮があったといわれていますし、同じ滋賀を拠点とする氏族なら、大友皇子側につくのは自然な流れかと思われます。
栗東というと、琵琶湖に流れ込む川では最大の野洲川沿いにあり、その下流には、守山市や野洲市が位置します。

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野洲川下流の平野部では、縄文時代からの遺跡が多数見つかっていますが、川によって農耕に適した三角州が作られたためか、特に弥生遺跡が数多くみられます。

栗東市と守山市に跨る伊勢遺跡では、伊勢神宮正殿に似た独立棟持柱付大型建物跡が見つかっており、伊勢という地名と共に非常に気になる遺跡です。

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▶︎伊勢遺跡のジオラマ。巨大な祭祀施設だったようです。

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▶︎伊勢神宮境内の建物。伊勢遺跡同様、棟持柱が見られます。

一方の野洲市には大岩山古墳群がありますが、同じ地域からは日本最大の銅鐸が見つかっています。

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▶︎野洲の大岩山古墳群。こちらも、眺望が素晴らしい。

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▶︎
野洲の銅鐸博物館。野洲からは、日本最大の銅鐸が出土しています。

そんな、古代、農耕や水上交通、祭祀において、重要であったと考えられる野洲川流域。
その上流を拠点とした阿保氏は、それらの地域を統括していたのかもしれません。
そう考えると、当時の彼らの勢力が、いかに甚大であったか、想像に難くありませんね。

また、壬申の乱が転期であったなら、伊賀の南部に隣接する名張市の美旗古墳群は、阿保氏が活躍していた時代に築造されたことになります。
あれらの古墳は、阿保氏のものなのか。
それとも阿保氏に仕えた秦氏のものなのか。
またまた、妄想が膨らみます。
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三重編の最終回です。
伊賀名張と辿ってきた初瀬街道の終着点、松阪。
そこにある宝塚1号墳。

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その墳頂からは伊勢湾が臨め、造り出しの周辺からは、巨大な船の埴輪が見つかりました。

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この船はおそらく、この辺りに有力な海人族がいた事を表しているのでしょう。
船上には、剣、杖、笠が装飾されており、とりわけ笠(蓋)は、王に差し向けられるもの。

この墓は、初瀬街道を通ってやってきた、ヤマトの王族を関東へ運んだ海人族のものなのか。
それとも、関東との交易を行った有力者のものなのか。

ロマンが広がりますね。

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前回の続きです。

伊賀を訪れたあと、名張市の美旗古墳群にも行きました。

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▶︎美旗古墳群の馬塚古墳。三重県下最大級の古墳群です。

美旗古墳群を巡っていると、初瀬(はせ)街道と書かれた看板が目に入りました。

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奈良県の桜井市には、初瀬と書いてハツセと読む地域があります。
初瀬は泊瀬とも書き、花の寺として有名な長谷寺の長谷も、もとは同意であると思われます。

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▶︎長谷寺は、初瀬街道を見下ろす場所にあります

泊瀬の文字は、雄略天皇や武烈天皇の別名にも含まれており、初瀬周辺には彼らの宮跡と伝わる場所もあります。

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▶︎奈良の桜井市にある、雄略天皇の宮伝承地。雄略天皇の和風諡号は、大泊瀬幼武天皇。泊瀬は、長谷と書くことも。

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▶︎同じく桜井市にある武烈天皇の宮伝承地。武烈天皇の名は、小泊瀬稚鷦鷯尊。
初瀬街道は奈良の初瀬と三重県の松阪を結ぶ道で、途中、伊賀や名張も通ります。
街道が作られた時期は定かではありませんが、天武天皇が壬申の乱の際に通ったとされていますので、少なくともその頃には、存在していたのでしょう。

ヤマトから初瀬街道を通り、伊勢湾に出れば、関東方面への航路が開けます。
そう考えると初瀬街道は、関東へ進出するための重要な道であった可能性もありそうです。
その道沿いに造られた、美旗古墳群。
美旗の旗は、おそらく阿閉氏が来る以前から、この地域に住んでいたと言われる、秦氏の秦でしょう。
彼らはここで、どんな役割を果たしていたのでしょうか。

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▶︎美旗古墳群の地域に鎮座する美波多神社。おそらく、こちらの波多も秦。

関東といえば、泊瀬を名に持つ雄略天皇は、埼玉県さきたま古墳群の将軍山古墳から出土した鉄剣に、被葬者であるオワケノオミが、仕えていたと記されています。

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▶︎さきたま古墳群の稲荷山古墳出土鉄剣。ワカタケル表記で、雄略天皇の事が書かれています。

またこの剣には、オワケノオミは大彦の子孫であるとも書かれています。
初瀬街道沿いにある伊賀で勢力を持ち、祖神である大彦を祀った阿閉氏。
その阿閉氏と、共存したとされる秦氏。
阿閉氏と同じく、大彦を祖先に持つオワケノオミ。
彼らと雄略天皇との関係も、気になるところです。
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